日本ではクリスマスというと’パーティー’のイメージが強い。でも、海外では’家族’の為の最大イベントで、年に一度家族が集い、テーブルを囲み、一緒に時間を過ごす、それがクリスマス休暇。(私のイギリスでの家族はユダヤ系イギリス人だったから、クリスマスツリーもそれを祝う事もしなかったけれど、同じ時期に’ハヌカ’というお祝いごとがあって、やはり家族が一同に集まって食事をした)
クリスマスの25日ボクシングデイの26日は交通機関の運行数も減るし、たいていのお店もお休みとなるから、皆、イブの夕方迄に食料を買い込んで、この二日間の用意をする。
家族がいない人はクリスマス難民になってしまうから、友人と集ったり、どこか旅行に出かけたりする。ひとりで過ごすのはなかなか辛い時なんだけど、今年は一人で過ごしている。いや、正しくは、今年も、ひとりで過ごしている。
なぜって、今年は一緒に過ごせると思っていた、コトリさんは、突然ひとり旅を決めて、今スペインのサラゴサという古い街並みの美しい場所にいるからだ。なにもクリスマスに行かなくても、と最初は少し悲しくなって愚痴ったりしたんだけど、もともと休みがあれば有意義に過ごしたい彼女は、家でTVを見てごはんを食べて過ごす事より、この時期だからこそ神聖で訪れた事のない地へ旅する事を選んだの、全て自分のお金でお膳立てしたのだから、彼女の選択を快く見送ろうという気持ちになった。良い経験の旅となるように心の中で見守っていよう、自分もこの与えられた時を何かしら自分のために有意義に過ごそう、と、そんな気持ちで迎えたクリスマスだった。だから、旧友達のギグに出かけたり、いつもより多めに書き物をしたり、クリスマスのご馳走もひとりでもちゃんと作ろうという気になったんだ。
(それにしても素敵な街だ。昨日はサラゴサの大聖堂でクリスマスミサを体験したと連絡があった)
さて、12月にはいってずっと考えていた事があった。
それは’生きる’ということの価値についてだった。
<親孝行ってなんだろう>
5年前の12月、母が他界した。母の命日の12月24日までの数週間は、毎日が命日のようなつもりでお線香をあげるようになった。孤独死で、発見される迄に日数がかかり、いつ倒れたのかがわからないままだったから。そして、クリスマスイブイブの24日は弟の誕生日でもあって、だから、祝い事と葬い事とが並び続くのが自分にとっての12月になった。
今年は菊の花をたくさん買ってお供えした。
お線香の香りに合う、菊の香りに気持ち洗われた。
同時に、居間の窓辺には赤いポインセチアが彩りを添えている。壁にはクリスマスリースもあって、12月のヨーロッパの森の香りを漂わしている。そうやってこの季節を楽しむ事もしている。
母が亡くなってから、はっきりと確信したのは、一番の親孝行とは、自分が健康で幸せである、という事だ。それは私がコトリさんや弟に対して思う気持ちと同じだ。
生前の母は電話すると、体調のことばっかりで、私が今何をしているとか、どんな仕事や暮らしをしているかとか、そういうことは一切聞いてくれなくて、風邪ひいてないか、ちゃんと食べてるか、とかそういう事しか言わない母をうざったい、気が効かない人だと思っていたが、それは、とにかく”元気でなんとかやっているのなら、何をしていてもいいから”という、若い時に家を飛び出して海外に移り住んでしまった元不良娘の事を全肯定で抱きしめてくれていたんだなあという想いであって、また健康である事のありがたさをわかってるからこそ、それを祈ってくれてたんだなあって、そういう存在を無くしてようやくわかった。(もう誰も’風邪ひいてない?’なんていって連絡してくる人はいなくなったからね。)
だから、毎朝、位牌の前で手を合わせる時、私は、母が安心してあの世で見守っていられるように、健やかで幸せな日々を過ごしている事を伝える気持ちで今日もそう生きようと思う。
<生きることの価値>
そんな12月にはいってまもなく、古い知人ジョニーの訃報が届いた。
ジョニーは元伴侶の幼馴染で、英語の苦手意識がまだ抜けなかった頃、そういうのをまったく気にしない風に普通に話しかけてくれる心の優しい人だった。とても明るい人で、小学校の先生をしていた。こんな人がうちの子の先生だったらと切に願い、彼が教えている小学校のキャッチメントエリアに入れるように、引っ越しまで考えた程、素敵な先生だった。
50歳目前、まだ40代の若いジョニーがどうして亡くなったかというと、とてもショッキングな話だけど、彼はクリスマス直前に自殺した。
長い事、躁鬱病に悩まされていたのだそうだ。知らなかった。
いつも、底抜けに明るいジョニーしか知らなかった。
私より200倍位、心優しく、明るく、そんな彼が鬱になる時があるなんて、想像もできなかった。
3人お子さんがいて、中学生の次男坊が屋根裏部屋で首をつっている彼を見つけた。
その訃報を聞いた数日は、正直、涙が溢れてたまらなく、仕事をするのもしんどい気分だったが、私は生きている人達との尊い時間と、亡き母の存在に支えられて、日々を過ごした。
”若い人が衝動的に自殺するのはわかるけれど、50代になって自殺する心境に至るとはどういう事だろうか”と、コトリさんが言った事が、心の隅っこにひっかかっていて、確かに、なぜ、日常のありがたみがわかっている年齢のはずなのに、しかも、家族が集うクリスマスを目前にして、どうして彼は逝ってしまったのだろうか、と、私の心は消化不良をおこした。
まるで、ロビン・ウィリアムスみたいだ。
たくさんの人に愛され、慕われていたのに、これからゆったり世代にはいるというのに、自ら逝く事を選択しただなんて。なんで?なんで?なんで?
発見した息子さんの心情、残されたご家族の事を思うといた堪れなかった。彼が鬱病だったなんて、想いもしなかったが、実は若い頃から躁鬱の歴史があり、鬱状態の事をずっと隠して生きてきていた、それがもうハンドルできなくなったのだろう、という事だった。涙涙涙。知らなかった。でも、ジョニー、知っていたら、私にも何かできることはあったかもしれないという気がして、残念でならなかったんだ。
ロンドンの街はクリスマスに向けて賑わいを増し、連日のように、プレゼントを買い込んでいる様子の人達で溢れかえっていた。出張の仕事がえり、そんな人だかりの中で、地ベタに座って物乞いしているホームレスの姿が対照的にやけに目にはいり、中には、白髪混じりのきっと50代、もしかしたら60代、そういうご年配の方もたくさんいる事に気がついた。どんな事情でホームレスとなっているのかわからないけれど、この寒空の下、帰るところも行くところもなく、金もなく、空腹でそこにいるというのはどんな気持ちだろう。家族はいないのだろうか?ひとりぼっちが堪えるこの時期に、希望の灯など微塵もないように、縮まって座っている人達を見て、胸が痛んだ。でも、もしその状況に自分がいたら、もう生きることにギブアップするかもしれない。
それ位、生きているのが辛い時期なのに、彼らがそういう状況になっても’生きている’という事にまだ救いがあって、とにかく、生きてさえいてくれたらと、複雑な想いで街を歩いた。
その日の夜は冷え込みがきつくて、ヒートテックにダウンでマフラーをぐるぐるまきにしても、まだ寒い感じだった。地下鉄の入り口近くの構内は多少外よりは暖がとれるが、まだ吐く息は白くなる程寒くて、誰も立ち止まる様子ない中で、耳の下まですっぽりとブランケットを被った女の子がうずくまっていた。まだ20代そこそこではないかと思えるような若いきれいな女の子で、なんで?って思いながら、人の歩く波に押されて通り過ぎる。もしかしたら、コトリさんとそれほど年齢が変わらないかもしれない、そして、その瞬間に、その娘が泣いているのに気がついて、振り返った。寒くて、心細くて、ブランケットを耳まで引っかぶってむせび泣いていた。気がついた時はエスカレーターに立ってしまっていて、戻れなかった。人に施せるような現金はなかったけれど、着ていたダウンのジャケットをとりあえず寒さをしのぐ為に譲ることはできるのでは、とか、そして、痛切に頭の中に浮かんでいたのは、’生きて’なんとか’生きてさえいてくれたら’ということだった。
現生の人の幸せ、生身の人間としての幸せに’環境’は大きく左右する。
どれだけ清い心の人でも自分がどうする事もできない周りの環境や状況のパンチバックを受けてるうちに立ち上がる力を失ってしまう事もある。
ホームレスは辛い、でも、生きてさえいてくれたら。
私自身も’鬱’のループが命を削る事、自分が人である、という尊厳さえ削ってしまう事があるという事、を体験して、それでもまだ生きている。しかも今はセラピストになってる。その、無理かもしれない事を乗り越える事、もう絶対無理ってその時は思ってたけど、不可能じゃないから、人は変わる事ができるから、自分さえ諦めなければ、人生は変わるから。
一見幸せな生活を送っていたジョニー、もう2度と会う事ができなくなった。
やり直したくても肉体的にやり直すことはできなくなった。
でも、もしまだ生きていてくれていたら、このお話には続きがあって、もし、ジョニーが生きてさえいてくれたら、白いオセロの駒が置けたかもと思ったりするんだ。
どうか、生きてください。
生きる事を諦めないで。
本当はひとりぼっちではない。
生きているからこそ起きる、体験できる、奇跡もあるから。