「各地の名もなき職人が実用のためにつくり、庶民の日常生活の中で使われてきたものこそ美しい」
☆コチラとか訪問前に見ておけばよかった:)
☆ 民藝館と湯町窯のエッグベーカーとの再会へと続く☆
手仕事の日用品の中に「用の美」がある、として 民芸運動を起こした思想家/宗教哲学者、民芸(民衆的工芸)という言葉を作った人、民藝運動の父 柳宗悦(やなぎ むねよし/又の呼び方をそうえつ)。こうやって写真を拝見するとなんと人柄が伺えそうな良い笑顔の方である。
早くに父親を亡くしながらも、貴族院議員の子息として恵まれた子供時代を過ごし、学習院初等科に入学。中等科(中学)に進む頃には、志賀直哉や武者小路実篤らと出逢い、その後生涯の友となる。
十代の頃に英国の詩人で神秘主義的な思想家ウィリアム・ブレークに興味を持ち、これをきっかけに宗教と芸術の関係についてより関心をもったとあった。ブレイクの作品の主題は、宗教的でありながら宇宙論的レベルで人間に内在する「神」の可能性を扱っていた。また、彼の思想は、天国と地獄、精神と肉体、善と悪、これら相反するものを分け隔てる二元論ではなく、全ての存在を認め、許容する、あらゆる対立が意味を持つという二次的一元論を提唱していた。それが、後の柳氏の「自然に則る生き方」こそ現世に生きる人間が二元の多様の中にあって一(ひとつ)に達する道であると、つながっていったようである。その「自然に則る生き方」の具体的発現が民藝であると、そしてそういった思想を元に民藝運動が進められていったのだそうだ。(☆参考資料☆)
21歳で大正文学の中心と言われる文芸同人誌「白樺」を創刊。(関東大震災が起きるまで14年間、全160冊が刊行された。近代日本最大の文芸同人誌と言われる)
24歳で声楽家の奥方と結婚、東京より引っ越した千葉の我孫子(あびこ)には、追いかけるように志賀直哉や陶芸家のバーナード・リーチも移り住んだという事だ。
30歳で「宗教とその真理」を刊行。その後数年に渡って朝鮮の民藝美術品の開拓、5年後の1924年には「朝鮮民族美術館」を設立
35歳 その前年の関東大震災で被災した柳家一家で京都に引っ越し、そこで出逢った古い器や着物などに魅せられる。また木喰仏(もくじきぶつ)の研究もはじまる
*木喰仏とは江戸後期の僧侶’木喰五行明満が掘った仏の事で、45歳で木喰戒(火の入った食物はとらず、木の実と果実のみを食する修行)を終え、56歳から93歳迄日本廻国の旅の中で山村の民のために約300体の仏を掘った。円満な相の像が多く、微笑仏とも呼ばれている。
40歳 「工芸美論」刊行、42歳 月刊誌「工藝」を創刊、この頃民藝品収集のために日本全国を旅する
45歳 日本民藝協会設立して会長に。「美と工芸」創刊
47歳 日本民藝館の完成
49〜50歳 沖縄へと移り、沖縄民藝品の研究、保存と紹介に尽力する
59歳 富山の城端別院で一夏を過ごしている間に「美の法門」かきためる。著書は翌年刊行。後、1961年72歳で他界するまで仏教〜宗教論に関する著作品が数々発表された。
実のところ、余り知識のないまま、日本民藝館を訪れて、ここでの常設の優れた民藝品の展示物+ちょうど行われていた特別展「美の法門」で拝見した壮大な掛け軸や小さな木喰仏など、心に残って後追いで知った事ばかり。是非、また立ち寄りたい。
☆コチラとか訪問前に見ておけばよかった:)
☆ちなみに、日本民藝館の西館(旧柳宗悦邸)は第二、第三の水土のみ入館可能との事。
今回は、残念ながら今回は訪れる事ができず。
今回は、残念ながら今回は訪れる事ができず。
☆ 民藝館と湯町窯のエッグベーカーとの再会へと続く☆